木綿のハンカチーフ

体調のすっきりしない毎日が続く。今日は久しぶりのオフ(に無理やりした)なのでゆっくりしようと思う。
 
と思いつつも、朝から昨日やりかけてた中国人留学生のPCをもう少し診てみる。
電源入れてみたら、ありゃ、やっぱりBIOS起動しなくなってる。
何度かやってたらようやく起動した。
う〜〜ん、とりあえずメモリテストしてみるか。
ということでメモリをテストしてると、母が来て人の顔を見るなり文句を言う。
母は母で祖母(自分の母親だけど)の相手でかなりストレスが溜まっているようで、ボクはそのはけ口ということになる。
メモリの異常はないのでとりあえずBIOSのアップデータがないか調べてみると、あったあった。ありました。
一通り文句を言われたところで、何か食べるものはあるかと言う母。
時計に目をやるとそろそろ昼が近い。随分と長いこと小言を聞かされたものだなぁ。
BIOSにアップデートを掛けつつ、イカのキムチ漬けを野菜と一緒に炒めて昼ごはんにした。
お腹の具合が落ち着くと母の機嫌も落ち着いたようだ。(笑)
昼食後、洗濯物をたたんでいたらその速さに母が驚くので、伊藤家の食卓でやっていたシャツのたたみ方を自慢げにレクチャーしてあげた。
フフフ、ちょっとしたり顔でリベンジしてやった気分になった。
さらに、まだまだだねと言っておいた。老いた母親にこのみみっちいリベンジ。
我ながら、人間がちっちゃぃ。(爆)
 
ところで、先日懐メロ番組をやっていて、その中で"木綿のハンカチーフ"を久しぶりに聴いて思わずホロリと来てしまった。
云わずと知れた、松本隆筒美京平コンビの名曲で、70年代のヒット曲だ。
それにしてもこの歌詞、反則なのにいい詞だ。
一人称で語られているのにも拘らず、語り手は二人。
つまりその二人のやり取りという形なのだけど、それぞれが自分の気持ちを言い合うのだ。
もしかして往復書簡?とも思ったけど、お互いの言葉があまりに"素"過ぎる気がするし、4番の歌詞からするとどうやらそうでもなさそう。
これは普通文章としてはありえない形。
常識だけど、文章って必ず誰かの目線で語られていくものだ。
自分の目線だったら、たとえば夏目の「吾輩は猫である」のような形で最初から最後までずっと一人称で話は続いていく。
そういう感じで大抵の場合、一人称か三人称で語られることが多い。
ちなみに三人称だと登場人物の心の声は一切なしで、心理描写をしていかなくちゃならなくなる。
複数の人間の心の声が丸見えになってしまう文章っていうのは常識的には掟破りなのだ。
でも木綿のハンカチーフはその掟を敢えて破っている。
しかしそれがこの詞のなんとも言えない切ない感じを出している。
これは、漫画的あるいは映像的と言えるかも知れない。
何でかしらないけど、漫画ではそういうことが普通に行われている。
表現のために時には常識を打ち破ることがいい結果を生むこともあるってことか。