クラムボンの正体

クラムボンを聴いていて、そのバンド名の元ネタになっている宮沢賢治の「やまなし」をなんだか無性に読みたくなってしまいました。
クラムボンとはご存知の通り、その話の冒頭に登場するキャラなのですが、それは宮沢賢治の造語なので実態が何なのかははっきりしてないのだそうですね。
これまた意外。
ボクははっきりとクラムボンに対するイメージを持っているのですが、興味が湧いてネットで調べてみるとこれまた色んな説が出ること出ること。
正直驚きでした。どの解説を読んでもボクには納得できないし。
一応定説的な扱いになっているのがクラムボン=泡説。
他にも亡くなった賢治の妹説やら日光(太陽)説やら、アメンボ説やら、蟹のお母さん説やら、クラム=ハマグリ説など色々。
究極は解釈してはいけない説。(笑)
ちょっと皆さん、深読みしすぎじゃないのかなと思うのですがどうでしょう。
みんなアカデミックなんだねぇ。
もし読んだことのない方や、もう一度読んでみたい方、すでに宮沢賢治の作品は著作権切れなので青空文庫でフリーで読めますよ。
ボクはsmoopyWindows用)というテキストヴューアを使っていつも青空の古い小説読んでますが、自動的に縦書きに直してくれるので読みやすいです。
「やまなし」は子ども向けの短編なのでものの数分で読み切れると思います。
手っ取り早く読みたい人へ、全文読めるサイトを見つけました。
 
ボクにとってはクラムボンはどう見ても人間のガキンチョちゃんに思えるのですがこの説はだめでしょうか?
いわばバカボンのような。(笑)
描かれているのは水中で生活する幼い蟹の兄弟のほのぼのとした日常のひとコマ。
絵としては小川の川底から川面の方を見上げた風景が描かれています。
水中の世界から見れば外の世界に存在する人間、しかも子どもなんて未知の生物もいいところですから、クラムボンなんていうなぞの名前をつけたっておかしくないですよ。
クラムボンは'かぷかぷ'笑うのですが、これ、揺れる水中から見た楽しそうに笑う子どもたちの様子を的確に描写してると思いません? かぷかぷ。
魚がやってくるとその姿を見てクラムボンは笑うのです。それも飛び跳ねて笑ったりします。
次にクラムボンは死んだ、殺されたという描写が出てくるのですが、子どもたち(それも昔の子どもですから)ってよくチャンバラ遊びとか戦争ごっこみたいのとかしてやられたぁ〜とかやりますよね。
で、死んだはずのクラムボンは魚が戻ってくるとすぐにまた笑うのです。
いかにも飽きっぽくて移り気な子どもらしい行動じゃないですか。
そのあと、にわかにぱっと明るくなるのですが、この描写はそれまで子どもたちが水辺で魚や蟹のすぐそばにいたんだということを説明していると思います。
つまりそれまで子どもたちが太陽を遮って、蟹の兄弟にとっては影を作っていたということ。
そして、明るくなるとしばらくして、それまで落ち着きのなかった魚も戻ってきて、今度はゆったりと落ち着いて泳ぐのです。
影の描写は、光が斜め方向から差していることを示していて、そのことも岸辺の子どもたちが影を作っていたことを示している描写の一環かと思うのですが。
そう考えると賢治の描写のすばらしさもまた際立ちます。
そして警戒すべき人間がいなくなってから、川蝉が魚をさらって行くのも理にかなった描写です。
どう読んでもボクにはこれが自然な解釈に思えるのですが、ネットで見る限りではボクと同意見は皆無。
人間だと言う説を立てている方もいらっしゃいましたが、その人の説では泳いでいたとか実際に殺人が起こったとか。
それだと賢治が丹念に描写している水中に差し込む光の穏やかな描写と矛盾しているし、第一童話だってことを無視した解釈。
色んな学者さんが色んな学説を立てておられるのですが、いずれも不遜ながらボクにはしっくり来ませんでした。
素直に文章読めばクラムボンは子どもでしょ。ってホント不遜だなぁ。←自分。
子どもは小川を覗き込んで歓びますが、逆に水中の蟹の兄弟から自分たちが覗かれていたり、蟹が自分たちと同じように兄弟げんかしてたり、お父さんに早く寝ろと言われたりという想像をしながら小川を覗き込んだらもっと楽しくなるでしょうね。
ブクブク水面に上がっていく泡が描写されていますが、蟹の兄弟が張り合って大きな泡を出してるなんて想像しながら見たら、きっと楽しいに違いないのです。
賢治は子どもたちにそんな豊かな発想力やイメージする力を伝えたかったのではないでしょうか。
さて、皆さんにとってクラムボンの正体は何ですか?
これを読んだ方に「クラムボンの正体」バトンを回したいと思います。(笑)
もちろん乗るも乗らぬも自由ですが。